一粒萬倍 A SEED ——「いただきます」に宿る日本の心を舞台で感じる

「いただきます」

食卓で交わされるたった五文字の言葉には、長い年月を生きてきた日本人の知恵と祈りが宿っています。食材を育ててくれた自然、命をつないでくれた動植物、そして料理を作ってくれた人へ。すべてへの感謝を込めて、私たちは「いただきます」と唱えてきました。

そんな日本の心と美を舞台で表現する作品が『一粒萬倍 A SEED』です。
「一粒萬倍」とは、一粒の籾(もみ)が万倍にも実り、やがて豊かな収穫につながるという吉祥の言葉。小さなものを丁寧に育て、大切に受け継ぐことの尊さを示しています。言い換えれば、それは「すべては小さな種から始まる」という真理でもあります。

能楽や日本舞踊といった古典芸能に、和太鼓やモダンダンスが交わるオリジナルエンターテイメント『一粒萬倍 A SEED』。日本の神話や五穀豊穣の物語を題材にしながら、光と音、身体表現を駆使して、観る人の心に「日本人の原点」を思い起こさせます。

 

伝統と現代の響き合う『一粒萬倍 A SEED』の魅力

『一粒萬倍 A SEED』は、日本最古の歴史書『古事記』をモチーフにした物語を軸に、古代の神々の世界から稲穂(五穀の種)が生まれ、五穀豊穣の恵みが人々の暮らしにもたらされるまでを描き出します。そこには、神話が単なる昔話ではなく、いまを生きる私たちの命や暮らしと直結していることを気づかせてくれる力があります。

舞台の大きな特徴は、伝統と現代の表現を自在に融合させている点です。能楽師が謡を響かせ、和太鼓の重低音が会場を揺らす一方で、ヴァイオリンやチェロといった洋楽器の旋律が重なり合い、独特の緊張感と調和を生み出します。箏や尺八といった邦楽器に、弦楽器や管楽器が加わることで、古代の物語が現代の私たちにも自然に届く音の世界が広がるのです。

舞踊もまた、ジャンルを超えて展開されます。能や日本舞踊といった伝統芸能の所作に、神楽の祈りの舞や現代舞踊の身体表現が交わり、古代神話の情景を立体的に描きます。厳かで静寂に包まれた瞬間と、躍動的で激しいエネルギーが交錯することで、舞台は観客の五感を揺さぶる総合芸術となります。

さらに、もうひとつ見逃せない特徴があります。それは、この舞台にはセリフがほとんど存在しないこと。言葉の壁を超えて、世界中の人が直感的に楽しむことができます。実際に、海外で上演された際も、観客はその迫力と祈りの空気感に強く心を動かされました。

『一粒萬倍 A SEED』は、伝統芸能に馴染みのない人にとっても、五感で味わえる体験型の舞台です。能や邦楽といった言葉だけでは少し敷居が高いと感じていた方も、この舞台では「体感」としてその魅力に触れることができるのです。


「食への感謝」を芸術に

『一粒萬倍 A SEED』を立ち上げたのは、作・演出を務める松浦靖さんです。
松浦さんが大切にしているのは「食と命への感謝」を舞台を通じて伝えること。

現代の私たちは、忙しさの中でつい「食べる」ことを当たり前にしてしまいがちです。けれども一粒のお米を育てるには、土や水、太陽、風……そして農を支える人々の手間が必要です。そのすべてが重なり、初めて「いただきます」が言える。松浦さんは、この見えにくいつながりを可視化し、観客に思い出させる場をつくりたいと考えています。

さらに特徴的なのは、松浦さんが公演する会場や地域ごとに、出演するアーティストを選び、最適なメンバーで舞台を組み立てていることです。能楽師、邦楽奏者、ダンサー、演奏家など、ジャンルも世代も異なるアーティストが集まり、その瞬間だけの舞台を創り上げます。さらに、現地で活動するアーティストも参加できる機会があり、地域ならではの表現やエネルギーが舞台に加わることもあります。

「観る人も演じる人も、いまここにいる奇跡を感じてほしい」——その想いが、舞台芸術に力を与えています。

 

神話が現代に息づく瞬間

『一粒萬倍 A SEED』の舞台は、具体的な物語を核にしながらも、音や光、身体表現で抽象的な美しさを紡ぎます。

たとえば「天の岩戸開き」。
天照大御神が岩戸に隠れ、世界が闇に包まれる場面では、舞台全体が深い暗闇に沈みます。そこに鳴り響く和太鼓の低音。観客の胸まで震わせるその響きに、古代の恐怖と祈りが重なります。やがて神々が舞い、謡が響き、光が差し込む。岩戸が開かれた瞬間のまばゆさに、客席から思わず息を呑む声がもれる——。

能の「謡」や舞踊の「型」は、長い年月を経て磨かれた洗練そのもの。一方、モダンダンスのしなやかで力強い動きは、観客にわかりやすい感情をダイレクトに届けます。その二つが舞台上で交差するとき、古代の神話は単なる昔話ではなく「いま私たちの暮らしにつながる物語」として立ち上がります。

 

はじめての人にこそ届けたい理由

能や邦楽と聞くと、「難しそう」「自分には敷居が高い」と感じる方は多いでしょう。けれども『一粒萬倍 A SEED』は、そうした不安を軽やかに越えていける舞台です。

たとえば音。和太鼓のリズムや笛の響きは、専門知識がなくても身体で感じられるもの。舞やダンスは、言葉を介さずとも人の心を動かします。舞台上で交わるそれぞれの芸術は、観客に「知識ではなく感覚で楽しむ」体験をもたらします。

そして舞台のテーマが「食への感謝」であることも大きなポイント。誰にとっても身近な食事が、神話や芸能を通して描かれることで、観客は自然と自分の暮らしを重ね合わせることができます。「私の食卓もまた、命と祈りに支えられている」と気づいた瞬間、舞台と日常が一つに結びつくのです。

 

未来への展望——一粒から広がる世界

『一粒萬倍 A SEED』は、すでに国境を越えてその魅力を届けた経験を持っています。
2017年、米国ロサンゼルスにあるアームストロング劇場で上演された際、現地の観客から大きな反響がありました。言葉の壁を越えて、和太鼓の響きや能楽の声、舞踊の所作が観る人の心に深く届いたのです。「食への感謝」や「自然とのつながり」といったテーマは、国や文化の違いを越えて共感を呼び起こす普遍的なものだと証明された瞬間でした。

その経験を経て、松浦靖さんはより本格的な海外公演へ挑戦しようとしています。『一粒萬倍 A SEED』という作品が持つ可能性は確かに広がり続けています。伝統と現代の表現を融合させた舞台芸術が、世界の人々に「いただきます」という言葉に込められた日本の心を伝えていく日も、そう遠くはないでしょう。

松浦さんは語ります。
「一粒のお米が万倍に実るように、小さな気づきが大きな豊かさへと育っていく。その体験を、日本だけでなく世界の人々に届けたい。」

その言葉どおり、『一粒萬倍 A SEED』は観客一人ひとりの心に小さな種をまき続けています。未来への挑戦は、すでに始まっているのです。

 

いただきますの心を、舞台で思い出す

一粒のお米に込められた祈り。
いただきますの言葉に込められた感謝。
それは日本人の暮らしの根底にありながら、いつの間にか意識の奥に埋もれてしまいがちなものです。

『一粒萬倍 A SEED』は、その心を鮮やかに照らし出してくれる舞台です。
伝統と現代が交わり、神話と日常がつながる瞬間を体験するとき、私たちは「小さなものを大切にする」豊かさを思い出すのです。

一粒の種が、やがて万倍の実りとなるように。
あなたの心にも、豊かさの種が芽生えることを願って。

舞台写真 新井勇祐 / 複製・転載禁止